0000年0月0日
- 出身
- 尾張国
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
生年は1533年・1541年説あり。没年は1605年・1612年といわれる。実在した人物である。 通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次、穀蔵院飄戸斎(読み方 こくぞういんひょっとこさい)...(続きをみる)
- 前田慶次の名言
- 『たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん』
- 出身
- 尾張国
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
生年は1533年・1541年説あり。没年は1605年・1612年といわれる。実在した人物である。 通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次、穀蔵院飄戸斎(読み方 こくぞういんひょっとこさい)...(続きをみる)
- 前田慶次の名言
- 『生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う』
生年不詳。出生は伊賀国・遠江国・河内国・丹後国と諸説あり。 安土桃山時代、京都を騒がせた盗賊団の頭領。長年実在の人物であるか議論されていたが、宣教師であるアビラ・ヒロンの日記により、その存在が...(続きをみる)
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生まれはは越前国の説もある。号は巌流。師は中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎。 野太刀「備前長船長光」(通称 物干し竿)を携え、秘剣「燕返し」を会得。 宮本武蔵との巌流島...(続きをみる)
おもな官位は正四位上長門守。母が豊臣秀吉の遺児・秀頼の乳母だったことから、木村重成は秀頼の小姓となりともに育った。 豊臣秀頼は幼馴染である木村重成をあつく信頼し、重臣として重用した。1614年...(続きをみる)
織田信長の生母である。ほか、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母でもある。信長の父・織田信秀の継室となる。 生年、実名、出身国、父など出自については不確定な情報が多い。(出身...(続きをみる)
豊臣秀吉の最古参の家臣のひとり。 本名は正勝。一般的に知られる「小六」は幼名。通称は彦右衛門。官位は従四位下修理大夫。講談や『太閤記』などにより野盗の親玉というイメージが強い人物。 蜂須賀家...(続きをみる)
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天下三宗匠のひとり(ほかは、千利休、今井宗久)。名は助五郎。号は天信、幽更斎。実家の屋号から「天王寺屋宗及」とも呼ばれる。 津田宗及は、堺の豪商・天王寺屋津田宗達の子として誕生し、武野紹鴎の門...(続きをみる)
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織田信長の側近中の側近で、京都所司代を務めた。 通称は吉兵衛。号は春長軒。おもな官位は長門守、民部少輔、民部丞。 早くから織田信長に仕え、行政手腕に秀でていたことから重用された。1568年に...(続きをみる)
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陸奥国田村郡三春城主。母は伊達稙宗の娘で、正室は相馬顕胤の娘。田村氏は坂上田村麻呂の後裔といわれる。 清顕の頃、田村氏は二階堂氏、蘆名氏、佐竹氏といった周辺諸勢力との間で同盟と抗争を繰り返して...(続きをみる)
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北条早雲の頃より北条氏に仕えた名門・松田家出身で、北条家中筆頭の知行だった。 左衛門佐、のちに尾張守を称した。母は、北条綱成の妹(姉とも)である。 代々松田家は北条氏の家老を務めていたため憲...(続きをみる)
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扇谷上杉家の重臣で、小田原城の城主。幼名は与一。号は寄栖庵。 大森氏頼は当初、関東公方・足利持氏に仕えていたが、持氏と関東管領・上杉憲実の間で起きた「永享の乱」で持氏が敗れたあとは扇谷上杉氏に...(続きをみる)
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「小弓公方」を称した二代古河公方・足利政氏の息子(次男)。兄は三代古河公方・足利高基。僧名は空然、完済。官位は右兵衛佐。 足利義明は幼くして出家し、鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)を務めたという。...(続きをみる)
越後柿崎城主で、上杉謙信の七手組大将のひとり。仮名は弥次郎。受領名は和泉守。 はじめ長尾為景に仕えたが、為景が没すると長尾晴景に仕え、その子・景虎(上杉謙信)に仕え重用された。文武両道に優れた...(続きをみる)
蒲原郡新発田城主。仮名は源太。受領名は因幡守。 はじめ五十公野家を相続し五十公野治長と称したが、兄・長敦の死をうけ新発田家を相続し新発田重家を名乗った。上杉謙信に仕え川中島合戦や関東出兵に参加...(続きをみる)
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今川家の家臣で、武勇の誉れ高い岡部家の出身。 通称は五郎兵衛。別名は長教、元綱、真幸。官位は丹波守。 岡部元信は今川義元に仕え、遠江・三河平定に多大なる尽力をした。対織田軍の最前線である鳴海...(続きをみる)
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豊臣政権の三中老のひとり(ほかは、生駒親正、堀尾吉晴)。仮名は、孫平次。おもな官位は、式部少輔、従五位下。 中村一氏は、織田信長の家臣だった頃の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、1573年頃には秀吉...(続きをみる)
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戦国時代の臨済宗の僧で、武田信玄の招きに応じ恵林寺の住持となった。信玄の道号である「機山」は紹喜が与えたものである。1582年の織田信長による甲州征伐の際は、信長に敵した六角義弼らを恵林寺にかく...(続きをみる)
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織田信長を火縄銃で狙撃した人物として知られる。出身などは諸説あるが、甲賀五十三家の一つである杉谷家といわれ、もとは忍者や猟師、賞金稼ぎなどともいわれている。信長を狙撃した理由も怨恨、六角氏からの...(続きをみる)
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織田信長の小姓。荒木村重の謀反による有岡城の戦いにおいて討ち死にした。神子田長門守の子といわれているが、出身国・生年とも不明な点が多い。(続きをみる)
井伊直盛の娘、井伊直政のはとこ。2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公である。(続きをみる)
1432年0月0日
1456年生まれとの説もある。(続きをみる)
- 北条早雲の名言
- 『少しの隙あらば、物の本をば、文字のあるものを懐に入れ、常に人目を忍び見るべし』
1450年0月0日
織田信長の家臣でエリート集団「黒母衣衆」の筆頭。美濃国岩村城主や甲斐国府中城主も務めた。通称は与兵衛。別名は重遠、鎮吉。官位は肥前守。 河尻秀隆は織田信長の父・信秀に仕え、信秀没後は信長に仕え...(続きをみる)
1451年0月0日
平安時代より三浦半島を支配した名門・三浦氏の事実上最後となる当主。 本名は義同。別名は三浦介。よく知られる道寸は出家後の号。おもな官位は従四位下陸奥守。 三浦道寸は扇谷上杉高救の息子として誕...(続きをみる)
1479年0月0日
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鎌倉時代から続く名門・下総結城氏の15代当主で「結城氏中興の祖」といわれる人物。 結城政朝が2歳のときに父・結城氏広が急死したため、わずか3歳で家督を相続することになった。しかし、そのため家中...(続きをみる)
1488年0月0日
伊達氏十四代当主であり、伊達政宗はひ孫にあたる。 当初は高宗と名乗っていたが、室町幕府十一代将軍・足利義稙から一字賜り稙宗と改名した。和歌を好み、号は受天。おもな官位は、左京大夫、従四位下。 ...(続きをみる)
1489年0月0日
武田信玄家臣団の筆頭格。武田二十四将のひとり。武田四天王のひとりでもある。 別名は板垣信形、板垣駿河守。おもな官位は駿河守。 武田家二代(信虎、信玄)に仕え、家臣筆頭格としてよく支えた。 ...(続きをみる)
上杉四天王の一人(ほか、直江景綱、甘粕景持、柿崎景)。 越後国の上杉晴景、謙信の2代に仕え、越後琵琶島城主を務めた。上杉謙信の軍師・宇佐美定行のモデルとしても知られる。別名は良勝。受領名は駿河...(続きをみる)
1492年0月0日
幼名は狛千代丸。初名は清秀。別名は五郎左衛門。おもな官位は、監物、中務丞。織田信長の父・信秀の重臣で内政面で活躍した。信長が誕生するとその傅役となり、元服式や初陣にも立ち会った。敵対を続けていた...(続きをみる)
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出雲の戦国大名・尼子経久の子(次男)で、出雲新宮谷に住んだ戦闘集団「新宮党」のリーダー。幼名は孫四郎。受領名は紀伊守、刑部少輔。 父・経久をもって「軍務にかけては鬼神のごとし」と言わしめたほど...(続きをみる)
1493年0月0日
武田信玄についた、戦国時代屈指の軍師。 武田二十四将のひとりであり、武田五名臣のひとり(ほか、原虎胤、小畠虎盛、横田高松、多田三八郎)(続きをみる)
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長尾為景、晴景、上杉謙信と上杉3代に仕えた重臣。 鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した豪族「揚北衆」のひとりで岩船郡小泉庄平林城主。通称は弥三郎。官位は修理進。上杉謙信からあつく信頼...(続きをみる)
1494年0月0日
あだ名は美濃の蝮。 幼名は峰丸。通称は新九郎。法蓮房、松波庄九郎、長井規秀、斎藤利政など多くの別名を持つ。 道三は、僧侶から油商人となり己の才覚をもって謀略を駆使し、美濃一国の「国盗り」を成...(続きをみる)
1496年0月0日
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「たいげんそうふ」とも読む。 臨済宗の僧で、今川義元のブレーンとしても知られる。俗姓は庵原。別号に崇孚。 駿河庵原周辺を治める庵原氏出身の庵原左衛門尉政盛の子として誕生した雪斎は、はじめ九英...(続きをみる)
1497年0月0日
武田五名臣のひとり(ほか、小畠虎盛、横田高松、多田三八郎、山本勘助)。武田二十四将の一人でもある。 別名は虎種。おもな官位は美濃守。あだ名は鬼美濃、夜叉美濃。号は清岩。 武田家きっての猛将...(続きをみる)
1498年0月0日
武田信玄家臣団の筆頭格。武田二十四将のひとり。武田四天王のひとりでもある。 通称は九衛門。おもな官位は備前守。 武田家二代(信虎、信玄)に仕え、信濃佐久の志賀城攻略戦などで、山本勘助も湛...(続きをみる)
1502年0月0日
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豊後大友氏20代当主で、キリシタン大名として知られる大友宗隣の父。通称は五郎。別名は親安、親敦とも。 1515年、父・大友義長の隠居にともない弱冠13歳にして家督を相続し、20代当主の座に就い...(続きをみる)
1503年0月0日
西美濃三人衆のひとり(ほか、稲葉一鉄、氏家卜全)。 幼名は梵天丸。通称は藤次郎。別名は日向守、伊賀守。号は道足、無用斎。 戒名は龍峰寺殿竹巌道足大居士。 美濃国歴代の支配者(土岐頼芸、斎藤道...(続きをみる)
1504年0月0日
武田信虎、信玄に仕えた甲斐武田氏の重臣で、武田二十四将のひとり。戦国最強をうたわれた精鋭部隊「赤備え」を率いた最初の人物といわれる。また、猛将として知られ「甲山の猛虎」とあだ名され恐れられた。官...(続きをみる)
1508年0月0日
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黒田官兵衛の祖父にあたる。つまり、黒田職隆の父であり黒田長政の曽祖父となる。黒田重隆は若い頃に備前国(現在の岡山県あたり)で、神官と目薬の商いをしながら蓄財し、播磨に移り住んだとつたえられる。そ...(続きをみる)
1510年0月0日
松永弾正(まつながだんじょう)としても知られる。 数々の裏切りや時の将軍殺害、東大寺大仏殿の焼失などにより、日本三大梟雄のひとりに数えられる(ほか、北条早雲、斎藤道三)。 はじめは三好長慶に...(続きをみる)
通称は三郎。あだ名は尾張の虎、器用の仁。織田信長の父である。美濃の斎藤道三と激しい戦いを繰り広げた。(続きをみる)
1512年0月0日
西美濃三人衆のひとり(ほか、稲葉一鉄、安藤守就)。ピーク時の領地では、三人衆のなかで最大勢力であった。 本来は氏家直元であるが、現在では号である「貫心斎卜全」から、「氏家卜全」と呼ぶのが一般的...(続きをみる)
1513年0月0日
豊臣秀吉の実母である。本名は仲(なか)。 秀吉のほか、姉・日秀尼、弟・豊臣秀長、妹・朝日姫(駿河御前)を産む。対徳川家康との政略の具として用いられることもあったが、秀吉が長浜城主についたときに...(続きをみる)
伊達氏の家臣で、伊達郡赤館城主・鬼庭元実の息子。別名は周防守。号は左月斎。 1539年に父・元実が隠居すると家督を相続、伊達氏十六代当主・伊達輝宗の側近となり重用され、天正年間には鬼庭氏は一族...(続きをみる)
信濃国小県郡真田の領主で武田氏の家臣。真田昌幸の父であり、真田幸村の祖父でもある。 幼名は次郎三郎。通称は源太左衛門、弾正忠。幸綱とも名乗った。号は一徳斎。あだ名は「攻め弾正」「鬼弾正」。信濃...(続きをみる)
1515年0月0日
幼名は伊豆千代丸。通称は新九郎。おもな官位は相模守・左京大夫。あだ名は相模の獅子、相模の虎。上杉謙信などを退け、関東における北条の地位を確立。北条全盛期を築く。(続きをみる)
美濃三人衆のひとり(ほか、安藤守就、氏家直元)。斎藤道三、織田信長や豊臣秀吉に仕える。 春日局は孫にあたる(稲葉一鉄が外祖父/養祖父)。 幼名は六郎・彦六。通称は彦四郎・彦六郎。受領名は右京...(続きをみる)
武田四天王のひとり(ほか、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信)。武田二十四将のひとりでもある。 初名は教来石景政。改名として馬場信房。別名は信政、信武、氏勝。おもな官位は民部少輔・美濃守。戒名は龍嶽...(続きをみる)
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無双の強さを誇った後北条氏随一の猛将。 幼名は勝千代。通称は孫九郎。受領名は左衛門大夫、上総介。剃髪後は道感と名乗った。 北条綱成は今川家臣だった父・福島正成の息子として誕生、父の死後、北条...(続きをみる)
1517年0月0日
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幼名は彦三郎。南部氏第24代当主。着実な勢力拡大により、出羽北部を統一。南部氏の最盛期を築いた。(続きをみる)
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播磨御着城主。黒田官兵衛が最初に仕えた人物として知られる。1576年、織田家と毛利家が領地を拡大するなか、挟まれることになった播磨・小寺氏はどちらにつくか選択を迫られることになる。家臣であった黒...(続きをみる)
1519年0月0日
幼名は芳菊丸。別名は氏元。おもな官位は治部大輔・上総介・三河守。 幼少時に出家し栴岳承芳(読み方 せんがくしょうほう)と称す。 兄・氏輝が早世した後、異母兄・玄広恵探(読み方 げんこうえたん...(続きをみる)
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豊後のキリシタン大名・大友宗麟の側近で、大友氏「三老」のひとり(ほかは、立花道雪、臼杵鑑速)。別名は太郎、鑑直。おもな官位は、伊予守、左近大夫。 吉弘鑑理は大友氏一門である吉弘家の出身で、妻は...(続きをみる)
1520年0月0日
名は兼員。初名は久秀。通称は彦八郎(のち彦右衛門)。 生まれは大和国ともいわれる。 茶湯の天下三宗匠のひとり(ほか、千利休・津田宗及)。独立都市・堺の豪商にして茶人。 号は昨夢庵寿林。屋号...(続きをみる)
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「うすきあきすみ」とも読む。 豊後の戦国大名・大友義鑑と宗麟の2代に仕えた重臣で、大友氏「三老」のひとり(ほかは、吉弘鑑理、立花道雪)。おもな官位は、四郎左衛門尉、越中守。 臼杵鑑速は外交手...(続きをみる)
1521年0月0日
通称は四郎。法名は承禎。官位は従五位下左京大夫。父は近江の守護・六角定頼。 1552年、父・定頼の死去にともない義賢は家督を相続、近江の名門・六角家の当主となった。その6年後には早くも長男・義...(続きをみる)
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周防大内氏の武断派重臣。「晴賢」の名で一般的に知られるが、この名を使っていたのはほんの数年で、「隆房」と名乗っていた。仮名は五郎。おもな官位は従五位下尾張守。 大内氏の重臣の家柄である陶氏の出...(続きをみる)
- 陶晴賢の名言
- 『何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有り様に 定まれる身に』
1522年0月0日
通称は権六郎、権六。あだ名は鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田。生年は1526年・1527年など諸説ある。 若い頃から織田信長に家臣として仕え、家中随一の猛将として知られる。信長の大軍略である天下...(続きをみる)
- 柴田勝家の名言
- 『夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』
茶の湯を大成した茶人で、「茶聖」とも称せられ天下三宗匠のひとり(ほかは、今井宗久、津田宗及)。 幼名は与四郎。法名は宗易、抛筌斎(ほうせんさい)。一般的に知られている利休の名は、1585年に正...(続きをみる)
1523年0月0日
別名は満・与三・三左衛門尉・三左衛門。織田信長の小姓・森蘭丸の父としても有名。 早くから織田信長に仕え、信長の家督相続や尾張国統一などに尽力した。数々の戦功により1565年には美濃国の金山(兼...(続きをみる)
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室町幕府の関東管領を務めた山内上杉氏の事実上最後の当主。 上杉謙信を養子にしたことでも知られる。別名は憲当、光徹。法名は成悦、光徹、光哲。官位は兵部少輔。 父・上杉憲房が没したとき憲政はまだ...(続きをみる)
1524年0月0日
仙桃院/仙洞院(せんとういん)という名で有名。生年は1528年説もある。上杉謙信の姉(同母、父は長尾為景)。長尾政景の正室となり、2男2女をもうける。このうちのひとりが、後に謙信の養子となり上杉...(続きをみる)
織田信長軍の赤母衣衆のひとり。のち、豊臣秀吉と徳川家康にも仕え、飛騨高山藩初代藩主となる。 通称は五郎八。おもな官位は飛騨守・兵部大輔。改名として可近(ありちか)、素玄。 戦国時代の主要な合...(続きをみる)
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改名は小寺職隆、黒田職隆。黒田職隆。別名として満隆(みつたか)、識隆(のりたか)。おもな官位は兵庫助、美濃守。号は宗円。黒田官兵衛の実父である。御着城主である小寺政職(こでらまさもと)に仕え着実...(続きをみる)
1525年0月0日
(続きをみる)
武田信玄の弟。武田二十四将において副大将(副将軍)格である。 幼名は次郎。改名で吉田信繁という呼び名も。主な官位は左馬助。別名で典厩(てんきゅう)、古典厩。 兄である武田信玄をよく補佐し数々...(続きをみる)
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小寺休夢(こでらきゅうむ)の名でも知られる。黒田官兵衛の叔父(職隆の弟)。武将としては、黒田官兵衛とともに参戦した三木合戦での活躍などで知られる。また、茶人としても有名であり、豊臣秀吉の御伽衆と...(続きをみる)
1526年0月0日
伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。瀬戸内統一を狙う大内義隆と伊予河野氏の戦いに、大祝家は陣代を派遣。 兄・安房の戦死後、16歳の鶴姫が陣代として一...(続きをみる)
幼名は猿夜叉。通称は左兵衛尉。ほか、新九郎。おもな官位は下野守・宮内少輔。浅井長政や京極マリアらの父である。(続きをみる)
米沢藩初代藩主・上杉景勝の実父。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主でもあった。 妻は上杉謙信の姉・仙桃院。幼名は新六。戒名は道宗。別名は六郎、新五郎。受領名は越前守。 1550年、家督を継いだ...(続きをみる)
島津氏の庶流・新納家の出身で、島津氏3代に仕えた重臣。小柄ながら武勇に優れ「鬼武蔵」「大指(親指)武蔵」の異名をとった。 幼名は阿万丸。別名は拙斎、為舟。おもな官位は、武蔵守、刑部大輔。 新...(続きをみる)
1527年0月0日
「徳川四天王」の筆頭(ほか、井伊直政、榊原康政、本多忠勝)。また、徳川十六神将の筆頭でもある。 幼名は小平次。通称は小五郎、左衛門尉。号は一智。おもな官位は従四位下左衛門督。松平氏の譜代家臣・...(続きをみる)
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織田信長に仕えた名将・滝川一益の従兄弟・甥といわれている。 通称は儀太夫。子に前田利益(後の前田慶次)がいる。利益は前田利久のもとへ養子に出された。この人物が、前田慶次である。 主君である滝...(続きをみる)
甲斐武田氏の家臣でいわゆる「武田四天王」のひとり(ほかは、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景)。 信濃国海津(川中島)城の城主でもある。もとは春日氏の出身で、春日虎綱とも名乗った。幼名は源助。通称は...(続きをみる)
織田信長の伝記『信長公記』の著者。 通称は又助。抜群の弓の腕前で「弓三張」のひとりに数えられ、1564年の美濃堂洞城攻めでは得意の弓で武功を挙げたという。だがその後は武者働きではなく内政面で活...(続きをみる)
1528年0月0日
幼名は彦太郎。通称は十兵衛。おもな官位は日向守。あだ名はキンカ頭。 足利義昭と織田信長の両方に仕えるという特殊な立場をとり、その教養の高さから重用される。 信長の天下統一戦では山陰方面を担当...(続きをみる)
- 明智光秀の名言
- 『仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う、百姓は可愛きことなり』
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織田信長の家臣団の筆頭格。 幼名は牛助。通称は右衛門尉・半羽介・半介。あだ名は退き佐久間。戒名は洞無桂巌、宗祐(法名)。夢斎定盛と号す。 織田信長が幼少のころより仕え、各地を転戦。戦闘におい...(続きをみる)
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豊臣秀吉最古参の家臣のひとりで、但馬国出石城主。実名は、坪内光景。幼名は、喜太郎、小太郎。通称は、将右衛門。おもな官位は、但馬守、従五位下。 前野長康は、豊臣秀吉がまだ織田信長に仕えていた頃か...(続きをみる)
1529年0月0日
武田四天王のひとり(ほかは、馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信)。軍装を赤一色にそろえ戦国時代最強を謳われた精鋭部隊「赤備え」を率いた人物としても知られる。 旧名は飯富源四郎。別名は三郎兵衛尉。昌景...(続きをみる)
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陸奥相馬氏15代当主で陸奥国行方郡小高城主。 母は伊達政宗の曽祖父・稙宗の娘で、妻は稙宗の姪。別名は孫次郎。おもな官位は弾正大弼、従四位下。 伊達氏と密接な血縁関係にあり良好な関係を築いてい...(続きをみる)
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下克上によって備前に覇を唱えた戦国大名。 備前の国人・宇喜多興家の子で宇喜多秀家の父。斉藤道三や松永弾正久秀と並び戦国時代を代表する梟雄とされ、中国地方三大謀将のひとりといわれる(ほかは出雲の...(続きをみる)
1530年0月0日
毛利両川のひとり(ほか、小早川隆景)。(続きをみる)
- 吉川元春の名言
- 『律儀を旨とし、智少なく勇のみある者は単騎の役にはよいが、大将の器ではない。』
1532年0月0日
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武田信玄の弟。武田二十四将のひとり。 改名として孫六、信廉、信連。主な官位は刑部少輔。兄である信玄の死後、出家して逍遙軒信綱と号し、現在ではこの逍遙軒(しょうようけん)の名称で広く知られる。ま...(続きをみる)
蟹江七本槍、徳川十六神将のひとりに数えられる徳川家康の武将。 通称は新十郎。別名は七郎右衛門。息子は徳川幕府で老中となり初期の幕政で重きをなした大久保忠隣。 若い頃から徳川家康の父・松平広忠...(続きをみる)
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周防大友氏最後の当主。弟にキリシタン大名として有名な大友宗隣がいる。 幼名は塩乙丸。通称は八郎。大友晴英とも名乗った。おもな官位は左京大夫、従五位下。 大内義長は、豊後大友氏20代当主・大友...(続きをみる)
1532年にポルトガルのリスボンで誕生。16歳の時にイエズス会に入会した。1563年、念願だった日本への来日を果たし布教活動を開始、1569年に織田信長と初めて対面し、その信頼を得て畿内での布教...(続きをみる)
1533年0月0日
幼名は徳寿丸。別名は又四郎、筑前宰相。おもな官位は中務大輔・参議・権中納言。 毛利元就の三男。小早川家に養子に入り家督を継ぐ。毛利宗家を支え、兄の吉川元春とともに「毛利両川」と呼ばれた。 戦...(続きをみる)
- 小早川隆景の名言
- 『自分の心に合うことは、皆、体の毒になると思え。自分の心に逆らうことは、皆、薬になると思え』
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後北条氏の家臣で北条氏康、氏政、氏直の3代に仕えた。 相模鎌倉代官、武蔵河越城主、武蔵岩槻城代を務めた人物で当主からの信頼もあつかった。幼名は孫九郎。別名は政重。通称は大道寺駿河守。官位は駿河...(続きをみる)
1534年0月0日
本名は鈴木孫一。通称は雑賀孫一または孫市。 鉄砲を得意とした雑賀衆の棟梁。根来寺の僧兵を指揮して石山合戦では織田信長を苦しめる。のち、豊臣秀吉に仕える。 正体は不明なところもあり、雑賀衆の棟...(続きをみる)
徳川幕府三代将軍・家光の乳母である春日の局の父としても知られる。 通称は内蔵助。「美濃の蝮」と呼ばれた斉藤道三の息子・義龍に仕え、その後、西美濃三人衆のひとり稲葉一鉄の家臣となったが不仲により一...(続きをみる)
織田信長・豊臣秀吉に仕えた名将・蒲生氏郷の父。官位は左兵衛大夫。近江日野城主。 六角氏の家臣だったが、近江に侵攻してきた織田信長により六角氏が滅ぼされる(観音寺城の戦い)と、信長の家臣となる。...(続きをみる)
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葛西氏17代当主で陸奥国登米郡寺池城主。 初名は信清。おもな官位は左京大夫。生没年は諸説ある。 葛西晴胤の子で兄がいたが、兄が病没したため家督を相続した。隣接する大崎氏とたびたび交戦し対立を...(続きをみる)
1535年0月0日
没年には諸説ある。父は美濃の斎藤道三、母は明智光継の娘・小見の方。明智光秀と従兄という説もあり、司馬遼太郎の『国盗り物語』ではこの説を採用している。 政略結婚により、織田信長に嫁ぐ。嫁いだあと...(続きをみる)
幼名は十二郎、のちに弥介(弥助)。おもな官位は摂津守、従五位下。利休十哲のひとりで号は道薫。なお、「浮世絵の祖」といわれる岩佐又兵衛は村重の子孫のひとりといわれる。 もともと摂津の池田勝正に仕...(続きをみる)
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京の吉田神社の神主で吉田神道の神道家。 初名は兼和。おもな官位は従二位神祇大副。細川藤孝(幽斎)は従兄弟で、兼見の子・兼治の妻は藤孝の娘。また、織田信長や明智光秀とも親交が深く、1582年の本...(続きをみる)
1536年0月0日
大僧正。智楽院とも呼ばれる。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近であり、朝廷政策や宗教政策において、幕府内で強い影響力を持っていたことから「黒衣の宰相」とも呼ばれる。 徳川家康の神号「東照大権現」を...(続きをみる)
通称は勝三郎、紀伊守。別名は信輝。号は勝入。 清洲会議での四宿老のひとり(ほか、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉)。織田信長の乳母・養徳院の子。長久手の戦いで戦死。(続きをみる)
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織田信秀の息子(3男)で信長の弟。 「信行」の名で知られるが、実名は信勝。通称は勘重郎(勘十郎)。尾張国末森城の城主。「うつけ」といわれた兄・織田信長とは対照的に若年の頃から礼儀正しい若者だっ...(続きをみる)
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戦国時代から江戸時代にかけて関白左大臣、太政大臣を務めた公家で、近衛家当主。 初名は、晴嗣。前嗣、前久と名を変えた。一字名は、竜・山・杉・春。道号は、竜山。おもな官位は、太政大臣、従一位、准三...(続きをみる)
1538年0月0日
幼名は松千代丸。通称は新九郎。おもな官位は相模守・左京大夫。後北条氏の第4代当主であり、北条家における実質的な最高権力者として関東一円を支配。北条氏の最盛期を築く。外交では徳川や伊達と良好な関係...(続きをみる)
- 北条氏政の名言
- 『雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風』
幼名は弥八郎。別名は正行。正保とも名乗った。おもな官位は、従五位下佐渡守。 幼少より徳川家康に仕えていたが、1563年に三河一向一揆が起こると一揆方につき主君・家康に敵対、一揆が鎮圧されると出...(続きをみる)
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武田信玄の息子(嫡男)。改名前は太郎。 将軍・足利義輝から「義」の一字を賜り、義信と名乗る。武田信玄の跡継ぎとして将来を期待されていたが、父・信玄暗殺を企てた謀反(義信事件)が発覚し幽閉。後に...(続きをみる)
室町幕府十四代将軍で、室町幕府歴代将軍のなかで唯一、京に入ることができなかった人物。生年は1540年説もある。 初名は義親。法号は光徳院。おもな官位は、征夷大将軍、左馬頭、従五位下。 足利義...(続きをみる)
1539年0月0日
幼名は弥三郎。通称は土佐侍従。おもな官位は土佐守・侍従・宮内少輔。あだ名は姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠。幼い頃は「姫若子」とあだ名されるほど、色白で物静かな少年だったが、長じてか...(続きをみる)
- 長宗我部元親の名言
- 『一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず』
武田信玄・勝頼の2代に仕えた譜代家老。織田信長の武田攻めの際に、心変わりし当時の君主・勝頼を裏切る。結果、武田勝頼は自害に追い込まれ武田家は滅亡してしまう。 小山田信茂の裏切りは敵方大将・織田...(続きをみる)
通称は彦右衛門尉。徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠、家康と松平家3代に仕えた鳥居忠吉の息子(3男)。 下総国香取郡矢作藩の藩祖でもある。なお、『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助(良雄)は元忠の...(続きをみる)
臨済宗の僧で、僧籍のまま大名になった異色の人物。 「安国寺」とは恵瓊が住持した寺の名である。幼名は竹若丸。法名は恵瓊。号は一任斎。安芸国の守護大名・武田氏の出身といわれる恵瓊は、安芸国の安国寺...(続きをみる)
豊臣政権のいわゆる「五奉行」のひとり(ほかは、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)で、京都奉行を務めた。 初名は基勝。通称は孫十郎。号は半夢斎、徳善院。一般的に知られている「玄以」は法名で...(続きをみる)
安土桃山時代から江戸時代にかけての絵師で「長谷川派」を形成した。 幼名は、又四郎。のちに帯刀と称した。父は能登国七尾城主・畠山氏の家臣といわれ、幼少期に染物業を営む長谷川宗清の養子になったとい...(続きをみる)
1540年0月0日
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別名は三木自綱(みつぎよりつな)。通称は光頼、自頼。おもな官位は左京大夫・大和守・大納言(自称)。庵号は休庵。 飛騨を完全制圧した後、柴田勝家や佐々成政と手を結び、豊臣秀吉と対立。しかしこの戦...(続きをみる)
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出雲の戦国大名で月山富田城の城主。父は尼子晴久、曽祖父は尼子経久。 幼名は三郎四郎。号は友林。 尼子義久は、父・晴久が急死したことを受け1560年に急遽家督を相続した。当時、尼子氏は石見銀山...(続きをみる)
1542年0月0日
実名は服部正成(読み方 はっとりまさなり)。あだ名は鬼半蔵。徳川十六神将のひとり。 父・保長の代から譜代の武将として徳川に仕え、伊賀忍者の頭領として合戦ではたびたび軍功をあげる。 なかでも、...(続きをみる)
あだ名は海賊大名。おもな官位は大隅守、宮内少輔、右馬允、従五位下。織田信長に仕え織田水軍を編成し大将として活躍。1578年の第二次木津川口の戦いでは毛利水軍600艘を撃破し、この武功により伊勢志...(続きをみる)
浅井長政の姉。(浅井久政の娘(次女))である。洗礼名はドンナ・マリア。 夫・京極高吉とともに、安土城下にて洗礼を受けるも、その数日後に夫が死去してしまう。豊臣秀吉のバテレン追放令が発せられた後...(続きをみる)
徳川十六神将のひとりで、『三河後風土記』の著者ともいわれるが定かではない。通称は七之助。官位は従五位下主計頭。 徳川家康と同年齢ということもあり、家康が今川義元の下へ人質に行った時にもこれに従...(続きをみる)
茨城城城主として、荒木村重とともに摂津の独立勢力であった。荒木村重が織田信長により摂津国の国主になると、荒木村重の家臣としてそれに従う。荒木村重の謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しは、...(続きをみる)
1543年0月0日
伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。瀬戸内統一を狙う大内義隆と伊予河野氏の戦いに、大祝家は陣代を派遣。 兄・安房の戦死後、16歳の鶴姫が陣代として一...(続きをみる)
豊臣秀吉の実妹であり、徳川家康の正室である。名は、旭、末津、家康に嫁いだ後は、駿河御前とも呼ばれた。 朝日姫は家康以外の男性と既婚であったが、小牧長久手の戦いのあと、家康を懐柔しようとした兄・...(続きをみる)
織田信秀の息子で、織田信長の弟。 初名は信良。通称は三十郎。別名は信兼。号は老犬斎。主な官位は上野介、左中将、従三位。丹波国柏原藩の初代藩主でもある。 1569年、織田信長が北伊勢を制圧する...(続きをみる)
1544年0月0日
初名は重虎、のちに重治(しげはる)。戒名は深竜水徹。通称である半兵衛が有名。「両兵衛」「二兵衛」とよばれた名軍師のうちの一人(もう一人は黒田官兵衛)。当初は美濃斎藤家に仕え、持ち前の軍略の冴えで...(続きをみる)
- 竹中半兵衛の名言
- 『陣中で死ぬこそ武士の本望』
幼名は彦太郎(のちに総次郎)。おもな官位は左京大夫、従四位下。正室は最上義光の妹・義姫。「独眼竜」政宗の父としても知られ、政宗の教育に熱心だったという。 1565年頃に家督を継いだが、父・伊達...(続きをみる)
一般的には武将・古田重然としてより、「織部好み」と呼ばれる大胆かつ自由な気風を特色とする流行を生んだ茶人・古田織部として知られている。 初名は景安。名は重然。通称は左介。別名を古左、古織とも。...(続きをみる)
豊臣政権の三中老のひとり(ほかは、生駒親正、中村一氏)。出雲松江藩の初代藩主でもある。 幼名は仁王丸、小太郎。仮名は茂助。諱は、可晴、吉定、吉直。おもな官位は、帯刀先生、従四位下。 温和な性...(続きをみる)
1545年0月0日
幼名は猿夜叉丸(読み方 さるやしゃまる)。通称は新九郎、備前守。おもな官位は贈従二位中納言。別名として賢政、長政。 16歳で父・浅井久政から家督を継ぎ、23歳で織田信長の妹・お市と結婚。美濃を...(続きをみる)
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わずか5歳の時に、父・尚綱が那須高資との戦いで敗死。広綱は宇都宮城を落ち延びて、家臣に養育される。2年後に父の仇である高資を殺害し、宇都宮城を占拠していた家臣の壬生が急死したことで、宇都宮城に復...(続きをみる)
土佐山内氏の当主。妻・千代(見性院)の内助の功もあり、目覚ましい立身出世を遂げた人物として有名である。戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に仕えた。(続きをみる)
能役者から徳川幕府の勘定奉行、老中に昇りつめた異色の人物。 通称は藤十郎、十兵衛。おもな官位は従五位下石見守。長安は1545年、武田信玄お抱えの猿楽師・大蔵太夫金春七郎喜然の息子(次男)として...(続きをみる)
豊臣政権の五奉行のひとり(ほかは、浅野長政、石田三成、長束正家、前田玄以)。 通称は仁右衛門。おもな官位は従五位下右衛門少尉。前歴は不明だが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田信長の家臣だったころから...(続きをみる)
武蔵国忍城の城代で、成田泰季の嫡男。小説『のぼうの城』の主人公”のぼう様”で一躍その名が広く知られるようになった。 1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が開始。北条氏に味方した成田氏長は小田原...(続きをみる)
京の豪商・茶屋家の初代当主で、徳川家康の御用商人。 茶屋家は、角倉了以の「角倉家」と後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる。茶屋家の当主は代々「茶屋四郎次郎」を名乗り、初代は名...(続きをみる)
1546年0月0日
武田信玄の息子(四男)。武田二十四将のひとりとする場合もある。 兄・武田義信が謀反の疑いにより失脚(廃嫡)により、信玄の跡取りとなる。父・信玄の領土拡大路線を継承するも、長篠の戦いにて織田信長...(続きをみる)
1547年0月0日
織田信長の妹。軍事同盟のため、浅井長政のもとに嫁ぐ。のち三姉妹をもうけるが、これが茶々、初、江である。本能寺の変後、柴田勝家と再婚するが、これも甥の織田信孝による政略である。 賤ヶ岳の戦いで柴...(続きをみる)
実名がねね、もくしは、おね。北政所というのは関白の正室を意味する。 豊臣秀吉の正室として、秀吉の出世を支えた。秀吉との間に実子はなかったが、後の有力家臣となる加藤清正や福島正則を幼少の頃から養...(続きをみる)
幼名は源五郎。改称し武藤喜兵衛、真田昌幸と名乗った。おもな官位は阿波守、従五位下。真田信之、真田幸村(信繁)兄弟の父としても有名。 昌幸は6歳の時に人質として甲斐国へ行き、武田信玄に仕えるよう...(続きをみる)
豊臣政権の五奉行筆頭。 幼名は弥兵衛。初名は長吉。一般的に知られる長政という名は晩年に用いたもので、長吉の名を長く用いた。おもな官位は従五位下弾正少弼、従四位下侍従。豊臣秀吉の正室・北政所(ね...(続きをみる)
- 浅野長政の名言
- 『太閤殿下の最近の御振る舞い、昔と変わられた。きっと古狐と入れ替わったと存ずる』
織田信長の弟のひとりで、武将としてよりも茶人として名高く利休十哲のひとり。 本名は織田長益。通称は源五。有楽斎如庵と号し、有楽、有楽斎と称される。おもな官位は侍従、従四位下。前半生は不明な点が...(続きをみる)
1548年0月0日
いわゆる「徳川四天王」のひとり(ほか、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝)。また、徳川十六神将でもある。なお、本多忠勝とは同い年である。 幼名は於亀(亀丸とも)。通称は小平太。おもな官位は従五位下式...(続きをみる)
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もともとは徳川家康の正室・築山殿の奥女中であったが、家康の手がつき側室となる。のち、結城秀康を産む。松平忠直の祖母、松平光長(後に越後騒動で改易)の曾祖母にあたる。 長勝院、小督局ともいわれる。(続きをみる)
斎藤義龍の息子。祖父は斉藤道三。 幼名は喜太郎。通称は刑部大輔。別名は右兵衛大夫、義糺、義輔。1561年、父・義龍が急死したことを受け家督を継ぎ稲葉山城の城主となった。しかし、父の代から続いた...(続きをみる)
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因幡の戦国大名で鳥取城主。 豊臣秀吉の御伽衆を務めた文化人でもある。初名は元豊。法名は禅高。おもな官位は宮内少輔、従五位下中務大輔。 父・山名豊定の死を受け兄・豊数が家督を相続すると、山名豊...(続きをみる)
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豊後大友氏に仕えた勇将。立花道雪の養子となった立花宗茂の実父にあたる。 父は大友氏の重臣・吉弘鑑理。幼名は孫七郎。初名は吉弘鎮理。のちに筑後高橋家の名跡を継ぎ高橋鎮種と名乗った。仮名は主膳入道...(続きをみる)
豊臣秀吉や徳川家康の政治顧問を務めた臨済宗の僧。別名は、相国寺承兌。号は月甫、南陽。 西笑承兌は、荒廃していた相国寺の住持となるとこれを再建し「相国寺中興の祖」と呼ばれた。その後、豊臣秀吉の政...(続きをみる)
1549年0月0日
伊達政宗の家臣。父は鬼庭良直。別名は左衛門、石見守、了庵、延元。 豊臣秀吉によって「茂庭綱元」と改名した。綱元は1575年に隠居した父・良直から家督を譲られ当主となり、長井郡川井城主となった。...(続きをみる)
1550年0月0日
幼名は栗山善助(くりやまぜんすけ)。 黒田長政の精鋭家臣である黒田二十四騎のひとり。また、二十四騎からさらに功績高い者を選出した黒田八虎のひとりでもあり、黒田家にとって非常に重要な家臣であると...(続きをみる)
1552年0月0日
通称は彦五郎。号は南坊等伯。官位は従五位下・大蔵少輔。キリシタン大名として知られ、ドン=ジュストという洗礼名を持つ。 茶道にも通じ、千利休の七高弟(利休七哲)のひとりとしても有名。初め松永久秀...(続きをみる)
1553年0月0日
幼名は菊千代。通称は久太郎。おもな官位は従四位下・侍従・左衛門督。戒名は高嶽道哲東樹院、釈道哲。 13歳で織田信長の小姓となり、その後各種の奉行職を歴任。また戦場では、越前一向一揆、雑賀侵攻、...(続きをみる)
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徳川十六神将のひとりとして知られる大久保忠世の息子(長男)。小田原藩の初代藩主でもある。 幼名は千丸。通称は新十郎。号は渓庵道白。忠隣は10歳の時から徳川家康に仕え、その家臣として1570年の...(続きをみる)
幼名は孫四郎。1553年に新宮党尼子誠久の息子(5男)として誕生したが、翌1554年、祖父・国久と父・誠久が尼子宗家の権力強化を狙う尼子晴久によって粛清されてしまう。勝久は難を逃れ、京の東福寺で...(続きをみる)
黒田官兵衛の正室である。子・黒田長政を産む。櫛橋光(くしはしてる)、また照姫(てるひめ)とする場合もある。。院号は照福院(しょうふくいん)、俳号は幸円(こうえん)。 (続きをみる)
1554年0月0日
幼名は理助。その勇猛さから「鬼玄蕃」とあだ名された。官位は玄蕃允。父は織田信長の家臣・佐久間盛次、母は柴田勝家の姉。織田家筆頭家臣だった佐久間信盛は盛政の叔父にあたる。 佐久間盛政は父と同じく...(続きをみる)
- 佐久間盛政の名言
- 『世の中を 廻りも果てぬ 小車は 火宅の門を 出づるなりけり』
本名は可児吉長(かによしなが)だが、通称である才蔵で広く知られている。 武勇の誉れ高く、ついたあだ名は笹の才蔵。これは、合戦において多くの首を討つため、後からわかるよう笹を死者にくわえさせたこ...(続きをみる)
賤ヶ岳の七本槍のひとり(ほかは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)。 伊予国大洲藩の初代藩主でもある。初名は甚内。号は臨松院。おもな官位は淡路守、中務少輔、従五位下。...(続きをみる)
“相模の獅子”とうたわれた北条氏康の息子(7男)で、のちに上杉謙信の養子となった。 幼名は西堂丸または竹王丸。北条三郎を名乗ったともいわれるが不明。号は出西堂。 これまで北条氏秀と同一人物と...(続きをみる)
茶屋四郎次郎の「茶屋家」と後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる京の豪商。 父・吉田宗桂は室町幕府に仕えた医者で、その傍ら金融業も営み勘合貿易にも従事していた。了以は、1600...(続きをみる)
1555年0月0日
幼名は弥九郎。別名は如信。おもな官位は摂津守・内匠頭・従五位下。霊名はアウグスティヌス(アゴスチノ)。 豊臣秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)において、加藤清正と先陣を争ったことは有名である。関...(続きをみる)
1556年0月0日
織田信長・豊臣秀吉に仕えた名将(続きをみる)
通称は助作。別名は直倫、直盛、且盛。おもな官位は東市正、従五位下。 早くから豊臣秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍、福島正則や加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられた。...(続きをみる)
母里太兵衛(もりたへえ)ともよばれる。また、毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお姓の正式な読みは「ぼり」である。黒田長政の精鋭家臣である黒田二十四騎のひとり。また、二十四騎からさらに...(続きをみる)
1557年0月0日
小十郎は通称であり、名は片倉景綱(かたくらかげつな)。 伊達政宗の右腕であり、小田原の役では豊臣秀吉方へ参陣するよう政宗を説得。無用な戦いを避け、伊達家を最大の危機から救った。(続きをみる)
幼名は奇妙丸。別名は信重、信忠。通称は勘九郎、三位中将、岐阜中将。 織田信長の息子(嫡男で世子)。本能寺の変にて自刃。(続きをみる)
山内一豊の妻。夫の目覚ましい出世を支えた、「内助の功」の逸話は有名であり、小説やドラマでたびたび取り上げられている。(続きをみる)
1558年0月0日
「おだのぶのり」と読むこともある。伊勢の神戸氏の養子となったため、神戸信孝(かんべのぶたか)とも呼ばれる。 織田信長の息子(3男)である。幼名は三七。通称は藤次郎。 織田信長の死後、継嗣問題...(続きをみる)
- 織田信孝の名言
- 『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』
織田信長の息子(次男)。 幼名は茶筅丸。通称は三介。尊称は御本所。号は常真。北畠家の養子時代は、北畠具豊、信意と名乗り、その後、織田信勝とも名乗った。叔父の織田有楽斎から茶を学び茶人としても知...(続きをみる)
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播磨三木城主。東播磨を支配した別所安治の子。 幼名は小三郎。おもな官位は従四位下、侍従。父・安治が病没したため若くして家督を相続した。早くから織田信長に従い、信長が中国攻めを開始しようとした際...(続きをみる)
- 別所長治の名言
- 『今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば』
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豊後大友氏22代当主。父は大友宗麟。幼名は長寿丸。別名は五郎。黒田孝高(如水)の強い勧めで一時キリスト教の洗礼を受け、コンスタンチノという洗礼名を授かった(のち棄教)。おもな官位は従五位下左兵衛...(続きをみる)
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荒木村重の正室。「だし」または「たし」とよばれた。 『今楊貴妃』とよばれるほどの美貌を持っていたといわれている。 最後は、遁走した荒木村重に置いていかれ、村重の家族縁者30人以上とともに、京...(続きをみる)
- だしの名言
- 『残しをく そのみどり子の 心こそ おもひやられて かなしかりけり』
1559年0月0日
幼名は桂松(慶松)。通称は紀之介。おもな官位は刑部少輔。ハンセン病を患い、白い頭巾を被り戦場に出ていたことでも知られる。 豊臣秀吉に小姓として仕え、賤ヶ岳の戦いでは七本槍に次ぐ軍功をあげた。 ...(続きをみる)
- 大谷吉継の名言
- 『大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す』
1560年0月0日
幼名は佐吉。おもな官位は治部少輔。 豊臣政権の五奉行の一人。おもに吏僚として才能を発揮して、主君・豊臣秀吉から絶大な信頼を得る。秀吉の死後は、その家督を継いだ嫡男・豊臣秀頼を支え、豊臣の中央集...(続きをみる)
幼名は与六。通称は次郎三郎。おもな官位は山城守。改名として樋口兼続、直江兼続、重光。 上杉家の家老。五大老である上杉景勝を補佐し、関ヶ原の戦いのきっかけとなる徳川家康の会津遠征を決意させた直江...(続きをみる)
1561年0月0日
幼名は市松。別名は左衛門大夫、清須侍従。おもな官位は参議。 賤ヶ岳七本槍の一人。七本槍のなかでも一番槍・一番首を遂げるなど武功数知れず、豊臣軍団随一の猛将として名高い。 朝鮮出兵を契機として...(続きをみる)
1562年0月0日
豊臣政権のいわゆる「五奉行」のひとり(ほかは、浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以)。 通称は新三(新三郎とも)。官位は従四位下侍従。 初め丹羽長秀に仕えていたが、その後、豊臣秀吉に召抱え...(続きをみる)
後北条氏の五代当主で戦国時代における最後の小田原城城主。 父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院、妻は徳川家康の娘・督姫。武田勝頼の甥にあたる。幼名は国王丸。通称は新九郎。別名は見性斎。おもな...(続きをみる)
1563年0月0日
本名は玉子(たまこ)または、たま。明智光秀の娘。戦国時代における美女としても有名。 父・光秀の主君である織田信長のすすめで、細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。本能寺の変後は「逆臣の娘」となって...(続きをみる)
- 細川ガラシャの名言
- 『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』
賤ヶ岳の七本槍のひとり(ほかは、福島正則、加藤清正、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)。 陸奥国会津藩の初代藩主でもある。初名は茂勝。通称は孫六、左馬助。おもな官位は、左馬助、従五位下、...(続きをみる)
1565年0月0日
織田信長の小姓。実名は森成利(読み方 もりなりとし)。俗称は蘭丸。乱、乱法師と称す。 本能寺の変で安田国継に討取られ、弟の坊丸・力丸もともに最後を遂げる。(続きをみる)
幼名は千穂。通称は弥八郎。 徳川家康の参謀・本多正信の息子(長男)で、父同様の策謀家として知られる。 幼少より家康に仕え、父譲りの頭脳をもって家康に重用された。家康が将軍職を息子の秀忠に譲り...(続きをみる)
- 本多正純の名言
- 『日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく』
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四国の覇者・長宗我部元親の息子(嫡男)。幼名は千雄丸。仮名は弥三郎。 幼少の頃から聡明で武勇にも優れていたため父・元親から寵愛されその将来を嘱望された。さらに長身の美形だったともいう。 烏帽...(続きをみる)
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徳川家康に仕えた江戸時代初期の大工で、京大工頭として畿内・近江6カ国の大工を統括した中井家の初代。 初名は藤右衛門。おもな官位は、従四位下大和守。父は法隆寺番匠の中井正吉。 中井正清の若い頃...(続きをみる)
1567年0月0日
幼名は弁丸。通称は源次郎。おもな官位は従五位下・左衛門佐。あだ名は不思議なる弓取り。 一般的には真田幸村で知られるが、史料による裏付けは現在まで見つかっておらず、正しくは「真田信繁(読み方 さ...(続きをみる)
- 真田信繁(幸村)の名言
- 『定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候』
1568年0月0日
豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。 幼名は治兵衛、通称は小一郎・孫七郎。おもな官位は内大臣、関白、左大臣。 あだ名は殺生関白、豊禅閤。 武将としては、小牧長久手の戦いにおいて池田...(続きをみる)
- 豊臣秀次の名言
- 『磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦』
織田信長の息子(4男)で、のちに羽柴秀吉の養子となった。幼名は於次(於次丸)。別名は丹波少将、丹波中納言とも。おもな官位は権中納言、左近衛権少将、従三位。詳細は不明だが、1586年頃の誕生と思わ...(続きをみる)
室町幕府十四代将軍で、室町幕府歴代将軍のなかで唯一、京に入ることができなかった人物。生年は1540年説もある。 初名は義親。法号は光徳院。おもな官位は、征夷大将軍、左馬頭、従五位下。 足利義...(続きをみる)
伊達政宗の重臣中の重臣。亘理伊達氏の初代当主。 幼名は時宗丸。仮名は藤五郎。受領名は兵部。官位は安房守。 伊達成実は1568年、大森城主・伊達実元の嫡男として誕生、1583年に家督を相続し大...(続きをみる)
1569年0月0日
浅井長政とお市の方の娘。いわゆる浅井三姉妹のひとり(ほか、初、江)。浅井茶々としても知られる。豊臣秀吉の側室として、捨(鶴松)、拾(秀頼)を生む。(続きをみる)
日本最初の天正遣欧使節の代表。マンショは洗礼名であり、本名は祐益。 天正遣欧使節の代表として大友宗麟の名代に選ばれた時、マンショはまだ13歳であった。ローマに渡ったマンショは、教皇グレゴリオ1...(続きをみる)
徳川家康の外交僧として活躍した臨済宗の僧。以心崇伝とも呼ばれる。あだ名は「黒衣の宰相」。 金地院崇伝は、父・一色秀勝の子として誕生し、父の没後、京の南禅寺で修行、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。南...(続きをみる)
1570年0月0日
浅井長政とお市の方の娘。いわゆる浅井三姉妹のひとり(ほか、茶々、江)。 京極高次の正室であるが、ふたりの間に子は生まれず、妹・江の娘などを養女として育てた。(続きをみる)
1571年0月0日
通称は又右衛門。別名は新左衛門。おもな官位は但馬守。柳生石舟斎で知られる柳生宗厳の息子(五男)。 剣の腕凄まじく、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛された。同時代のな...(続きをみる)
- 柳生宗矩の名言
- 『乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや』
幼名は與市。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。 1592年から1598年にかけて豊臣秀吉によって行われた文禄・慶長の役に、主君・伊達政宗に従い出陣、活躍した。1613...(続きをみる)
1572年0月0日
豊臣政権五大老のひとり(ほかは、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝)。妻は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女となった豪姫。 幼名は八郎。通称は備前宰相。別名を羽柴秀家、豊臣秀家という。号は久福。...(続きをみる)
1573年0月0日
稲姫は幼名。本多忠勝の娘。賢夫人として現在でも知られる。 上田合戦により真田軍の手強さを知った本多忠勝が、城主・真田昌幸を味方につけるため、徳川家康に自らの子である稲姫(小松姫)を嫁がせること...(続きをみる)
浅井長政とお市の方の娘。いわゆる浅井三姉妹のひとり(ほか、茶々(淀殿)、初)。 3度の婚姻を結ぶ。一人目が佐治一成、二人目が豊臣秀吉の甥・豊臣秀勝、三人目が徳川秀忠(後の徳川幕府第2代将軍)である。(続きをみる)
1575年0月0日
四国の覇者・長宗我部元親の息子(4男)。 幼名は千熊丸。通称は右衛門太郎。号は祐夢。おもな官位は土佐守、宮内少輔。盛親は4男であったが、長兄・信親が戦死したため父・元親から世子に指名され、15...(続きをみる)
1576年0月0日
豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政の子であり、紀州藩(紀伊国和歌山藩)の初代藩主である。 幼名は長満(ちょうまん)。初名は長継。改名としては長慶、幸長。おもな官位は左京大夫・従四位下・紀伊守・贈従...(続きをみる)
1578年0月0日
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大坂牢人五人衆のひとり(ほか、真田幸村、黒田又兵衛、明石全登、長宗我部盛親)。(続きをみる)
1579年0月0日
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戦国時代から江戸時代にかけての大名、茶人、建築家。特に作庭家として名高い。備中松山藩の2代藩主で近江小室藩の初代藩主でもある。 一般に知られる「遠州」は官位の遠江守に由来する呼称で、実際の名は...(続きをみる)
1580年0月0日
織田信長の孫(織田信忠の息子)。幼名である三法師として知られる。 通称は岐阜中納言、別名に三郎。キリシタン大名であり洗礼名はペトロ。 織田秀信がわずか3歳の時に、本能寺の変にて信長が急死。継...(続きをみる)
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1582年0月0日
幼名は木下辰之助。通称は金吾。別名は金吾中納言、筑前中納言、岡山中納言。おもな官位は参議・権中納言。豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の兄・木下家定の五男として生まれる。幼少の頃から義理の叔父である秀...(続きをみる)
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播磨御着城主。黒田官兵衛が最初に仕えた人物として知られる。1576年、織田家と毛利家が領地を拡大するなか、挟まれることになった播磨・小寺氏はどちらにつくか選択を迫られることになる。家臣であった黒...(続きをみる)
1583年0月0日
「おだのぶのり」と読むこともある。伊勢の神戸氏の養子となったため、神戸信孝(かんべのぶたか)とも呼ばれる。 織田信長の息子(3男)である。幼名は三七。通称は藤次郎。 織田信長の死後、継嗣問題...(続きをみる)
- 織田信孝の名言
- 『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』
1584年0月0日
実名は新免武蔵藤原玄信(読み方 しんめんむさしふじわらはるのぶ)。幼名は辨助(読み方 べんのすけ)。号は二天、または二天道楽。 13歳で生き死にかけた決闘をはじめて行なう。このとき新当流の有馬喜...(続きをみる)
- 宮本武蔵の名言
- 『自他共にうらみかこつ心なし』
1585年0月0日
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黒田長政の妻(継室)である。保科正直の娘であり、徳川家康の姪であり養女。法名は大涼院。栄姫は長政との間に、5人の子供(忠之(福岡藩2代藩主)・長興(秋月藩藩祖)・高政・徳(榊原忠次室)・亀子(池...(続きをみる)
1594年0月0日
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小寺休夢(こでらきゅうむ)の名でも知られる。黒田官兵衛の叔父(職隆の弟)。武将としては、黒田官兵衛とともに参戦した三木合戦での活躍などで知られる。また、茶人としても有名であり、豊臣秀吉の御伽衆と...(続きをみる)
1597年0月0日
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葛西氏17代当主で陸奥国登米郡寺池城主。 初名は信清。おもな官位は左京大夫。生没年は諸説ある。 葛西晴胤の子で兄がいたが、兄が病没したため家督を相続した。隣接する大崎氏とたびたび交戦し対立を...(続きをみる)
1603年0月0日
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1635年0月0日
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織田信長に仕えた名将・滝川一益の従兄弟・甥といわれている。 通称は儀太夫。子に前田利益(後の前田慶次)がいる。利益は前田利久のもとへ養子に出された。この人物が、前田慶次である。 主君である滝...(続きをみる)
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