「思案を重ねた決断であるなら、後戻りする必要はない」
小早川隆景黒田官兵衛とともに戦国時代を代表する知将として有名。兄の吉川元春とともに「毛利両川」と呼ばれた。
「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える 」
織田信長戦国の三英傑のひとり。あだ名は第六天魔王、大うつけ、赤鬼。実質機能していなかった室町幕府を滅ぼし、かつ群雄割拠の戦国時代終結への道筋をつけた。
「己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり」
徳川家康戦国の三英傑のひとり。応仁の乱から100年以上続いた無政府状態(戦国時代)に終止符を打った。
『徳川家康公遺訓』より。
「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」
柳生宗矩
剣の腕凄まじく、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛された。同時代のなかでも、宮本武蔵と並ぶ代表的武芸者である。
『葉隠』より。
「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」
宮本武蔵戦国から江戸時代を代表する剣豪。また、たいへんな芸術家としても知られ、水墨画『枯木鳴鵙図(読み方 こぼくめいげきず)』は国の重要文化財に指定されている。ほか、著書として『五輪書』や亡くなる七日前に書かれたといわれる人生訓『独行道』も有名。
『五輪書』より。
「大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を押さえることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を押さえ込もうとするのは、かえって大きな害である」
黒田官兵衛「両兵衛」「二兵衛」とよばれた名軍師のうちの一人(もう一人は竹中半兵衛)。 豊臣秀吉に仕えていた時代は、外交・調略などで活躍。関ヶ原の戦いでは東軍・徳川側につく。
『黒田如水教諭』より。
「人間の一生は若きに極まる」
鍋島直茂「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信の右腕的存在で、佐賀藩の藩祖。あだ名は、「龍造寺の仁王門」「老虎」。
『直茂公御壁書』より。
「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」
柳生宗矩剣の腕凄まじく、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛された。同時代のなかでも、宮本武蔵と並ぶ代表的武芸者である。
「家臣には情けを深くし、知行(土地)を賜るべし。知行ばかりを与えても、情けがなければうまく行かない。知行と情けは車の両輪である。鳥の両翼と同じで、どちらが欠けてもだめである」
蒲生氏郷信長・秀吉のもとで活躍を重ね、38歳の若さで会津若松92万石を治めるまで出世するも40歳で病没。家臣を非常に大切したことでも知られる。
伊藤半五郎への手紙より。
「我、人を使うにあらず。その業を使うにあり」
武田信玄あだ名は甲斐の虎、甲斐の龍。上杉謙信と5度に渡る川中島の戦いを繰り広げる一方で、着実に信濃・駿河を併呑。 無敵といわれた武田騎馬軍団を率いて、織田信長や徳川家康を恐怖に陥れるも、京都への西上作戦の途上で病没。
「寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし」
藤堂高虎築城の名人として知られる。なんども仕える君主を変えたことでもしられる。
「仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ」
織田信長戦国の三英傑のひとり。あだ名は第六天魔王、大うつけ、赤鬼。実質機能していなかった室町幕府を滅ぼし、かつ群雄割拠の戦国時代終結への道筋をつけた。
「人生は長いのだから、山川を越えて自分を強くすること。好きな事ばかり取り入れずに、むしろ、苦手なことに立ち向かっていくこと」
小早川隆景黒田官兵衛とともに戦国時代を代表する知将として有名。兄の吉川元春とともに「毛利両川」と呼ばれた。
「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」
武田信玄あだ名は甲斐の虎、甲斐の龍。上杉謙信と5度に渡る川中島の戦いを繰り広げる一方で、着実に信濃・駿河を併呑。 無敵といわれた武田騎馬軍団を率いて、織田信長や徳川家康を恐怖に陥れるも、京都への西上作戦の途上で病没。
「運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」
上杉謙信あだ名は軍神、越後の虎、越後の龍、聖将。その強さと「禅僧武人」ともよばれる正義感の強さを人に頼られ、関東・信濃を転戦する。なかでも甲斐の武田信玄と5度にわたって繰り広げた川中島の戦いはあまりに有名。
『壁書』より。
最後に。
織田信長の言葉を。
みずからを第六天魔王と称し数々の改革を断行。歴史に残るまばゆい業績から、わたしたちは織田信長を生まれついての天才と考えがちです。
ですが、彼はこんな言葉をのこしています。