• 更新日:2019年10月20日
  • 公開日:2018年1月9日

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兜に秘められた猛将同士のアツい友情

黒田長政所用の兜『銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)』
黒田長政所用の兜『黒漆塗桃形大水牛脇立兜(くろうるしぬりももなりおおすいぎゅうわきだてかぶと)』。画像引用元:ひすとりびあ
バッファローマンのロングホーンもかくやというような立派な2本のツノがすばらしく印象的な兜です。

こんな「いかにもボスキャラです」みたいな兜の持ち主は名軍師・黒田官兵衛の息子にして戦国時代を代表する勇将・黒田長政。強烈なインパクトを放つ大水牛の兜は長政の愛用品で、数々の戦場で武功をあげた長政のトレードマークでした。長政のものだったと思われる大水牛兜は3つ現存するそうです。気分によって替えていたんでしょうかね。

長政の活躍といえば特に秀吉による朝鮮出兵の際の奮戦ぶりが有名。川のなかで戦闘になった長政、兜のツノが水面から見え隠れするほどの激闘を制し敵将を討ち取ったというからカッコよすぎです。

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さて、こちらの兜には猛将同士の胸熱エピソードがあります。

朝鮮出兵の時のこと。黒田長政は福島正則とささいなことからケンカになった。福島正則といえば秀吉子飼いの武将で、武断派筆頭のような猛将。猛将同士の仲違いに周囲もハラハラ。しかし朝鮮出兵終了後、両者は和解する。そして、友情の証としてお互いの愛用の兜を交換したのだ。長政は大水牛兜を、正則は一の谷兜をーー。

時は流れ、1600年(慶長5年)に天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発。長政も正則も徳川家康を大将とする東軍に参加したのだが、この時、2人がかぶっていたのがかつて交換した兜だったのだ。

黒田長政の肖像画
関ヶ原の戦いに参陣する黒田長政。その頭部にはかつて福島正則の愛用品だった一の谷の兜が(『黒田長政騎馬像』)

黒田家に伝わる『銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)』
黒田家に伝わる『銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)』。
関ヶ原の戦場で、互いに交換した兜をかぶっているのを見た長政と正則、なにか言葉を交わし合ったんでしょうか。

サッカー選手が健闘をたたえユニフォームの交換をすることがありますが、似たようなことを戦国武将がやっていたというのはシビれます。

福島正則が出てきたので、マブダチの兜も。

兜もすごいが鎧が斬新すぎる

加藤清正所用の兜といわれている『金小礼色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく)』
加藤清正所用の兜といわれている『金小礼色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく)』(江戸時代)。画像引用元:図説・戦国甲冑集
スケルトン兜&鎧です。

鎧の胴部分は片肌脱ぎデザインで、素肌見せ。なんという斬新さ。兜も目庇(まびさし)部分は肌色、顔を覆う面頬(めんぼう)も肌色とまるで素顔みたいになっているし、兜の頭部には熊毛が植えられ髪の毛みたいになってます。こんなの着て登場されたら誰だってギョッとする。

このぶっ飛んだセンスの兜&鎧の持ち主は、福島正則の盟友で知と勇を兼ね備えた人気武将・加藤清正といわれています。落ち着いたイメージのある清正公ですが、ずいぶんエキセントリックな兜&鎧を着用していたんですね。

次も清正。清正公のトレードマークともいえる兜です。

なが〜〜〜い!

加藤清正所用の兜『長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)』
加藤清正所用の兜『長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)』(安土桃山時代?)。画像引用元:KJCLUB
ひとことで表現するなら「長い」。

こんなのかぶってたらあちこちに引っかかりそうです。烏帽子をデザインした長ーい部分は和紙でできており、シンプルな兜の上にかぶせてあります。日の丸のような赤い丸は日輪を表現しているそう。

清正はこうした長い烏帽子デザインの兜を愛用していたそうで、似たような兜が複数残っています。長烏帽子の兜は清正公のトレードマークになっていたようです。

加藤家所用の具足『白檀塗蛇目紋蒔絵仏胴具足』
加藤家の家紋である蛇の目(じゃのめ)があちこちにデザインされているのがこの『白檀塗蛇目紋蒔絵仏胴具足』。兜はやっぱり烏帽子スタイル。たくさんの目玉に睨まれているようでちょっと怖い。画像引用元:KJCLUB
次は長い&キンキラキン。

いくらなんでも目立ちすぎ

前田利家所用の兜『金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)』
前田利家所用の兜『金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)』(安土桃山時代)。画像引用元:図説・戦国甲冑集
まぶしい

ゴージャスがすぎる!全身これゴールド。

しかも兜も長い、長い。高さは約68センチもあるそう。サイドから金パツ生えてる

このド派手な兜&鎧は、派手好きなカブキ者(しかも美丈夫)として知られた前田利家のもの。推定身長182センチともいわれる利家がこれを着たらさぞかし目立ちまくったことでしょうね。

前田利家は魔王・織田信長に寵愛され、天下人・豊臣秀吉から絶大な信頼を受けた戦国武将。槍の名手で「槍の又左(またざ)」とあだ名されました。「加賀百万石」とうたわれる大国・加賀藩の礎を築いた人物でもあります。

さて、1584年(天正13年)に起きた「末森城の戦い」で前田利家はこの兜&鎧を実際に着用したといわれています。利家の家臣で末森城を守る奥村永福(ながとみ)は敵将・佐々成政(さっさなりまさ)率いる大軍に包囲されるなか、決死の籠城戦を展開し、落城寸前まで追い詰められましたが利家の援軍により戦いは前田方の勝利で終わりました。終戦後、利家は命がけで城を守った奥村永福にこのキンキラ兜&鎧を与えたといいます。

ちなみに、奥村永福が活躍する「末森城の戦い」はマンガ『花の慶次』に登場しているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。そう、奥村永福とは前田慶次のマブダチ、奥村助右衛門のことです。



奥村助右衛門こと奥村永福(漫画『花の慶次 ―雲のかなたに―』より(隆慶一郎 原作、原哲夫 作画))
やだ、かっこいい。慶次との共闘(と立ちション)はとにかくアツい!
あの助右衛門ならこのキンキラも着こなしてくれそうです。

長い兜はまだ続く。

オレは父を超える!(兜の高さで)

前田利長の兜といわれる『銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)』
前田利長の兜といわれる『銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)』(安土桃山時代)。画像引用元:なまずの尾っぽ(+)
もう本当に長い。なんという長さ。無茶しやがって……。

こちらのとっても長い兜、その長さはなんと127.5センチ。小学校低学年の子どもの背丈くらいあります。いくら軽い素材でつくられているからといっても首がぐらっぐらしそうです。

これは「鯰尾形兜」といってナマズの尾びれをモチーフにした兜。かつてナマズは地震を起こすミラクルパワーがあると信じられていたため、地震のように敵を驚かす、という縁起を担いだんじゃないかとも。

こちらの超ロングサイズの鯰尾形兜は、前田利家の長男・利長(としなが)のものといわれています。前田家は鯰尾形兜が好きだったみたいで、利長のお父さんである利家や弟の利孝(としたか)もナマズの兜を持っていたらしい。

次は黒田官兵衛とともに天才軍師として名高いあの人の兜。

イメージは魚!?

竹中半兵衛の兜といわれる『唐冠形兜(とうかんなりかぶと)』
竹中半兵衛の兜といわれる『唐冠形兜(とうかんなりかぶと)』(安土桃山時代)。画像引用元:戦国武将変わり兜図鑑
これもおもしろいフォルムの兜ですね。生き物のようにも容れ物のようにも見えます。なんかヌメっとした感じがする。鎧もとてもユニークでこんな。

竹中半兵衛の具足といわれる『魚鱗札二枚胴具足』
竹中半兵衛の具足といわれる『魚鱗札二枚胴具足』
全身がウロコで覆われています。魚人。ということは兜も魚をイメージしたものなんでは? とも推測されています。

額を防御する目庇(まびさし)の部分にはキリッとした眉毛が。ちゃんと眉間のシワもあり、とても威勢がいい。

こちらの兜&鎧は、薄命の天才軍師として有名な竹中半兵衛のものといわれています。半兵衛のものかどうかは推測の域を出ませんが、竹中氏伝来の逸品です。

次は徳川勢の天敵なあの知将の兜。

いろいろ受信できそう

真田昌幸所用の兜『鉄地黒漆塗突盔形兜(てつじくろうるしぬりとっぱいなりかぶと)』
真田昌幸所用の兜『鉄地黒漆塗突盔形兜(てつじくろうるしぬりとっぱいなりかぶと)』(安土桃山時代)。画像引用元:ウレぴあ総研
色味こそ渋い兜&鎧ですが、兜の前立は巨大な磁石のようでとてもユニーク。これは「天衝(てんつき)」と呼ばれる前立の代表的なモチーフのひとつ。鎧の胴部分にハシゴが描かれているのが個性的でおもしろいですね。

このシックだけどユニークな兜&鎧を着用していたのは、信州が生んだ知将・真田昌幸(まさゆき)です。言わずと知れた真田幸村(信繁)のお父さん。大河ドラマ『真田丸』にて草刈正雄が演じすっかり人気者になりました。徳川家にとって昌幸は天敵ともいえる存在でした。

真っ黒の次は真っ赤。

敵軍を恐れさせた「赤備え」のリーダー

井伊直政所用の兜『金箔押張懸天衝脇立付兜(きんぱくおしはりかけてんつきわきだてつきかぶと)』
井伊直政所用の兜『金箔押張懸天衝脇立付兜(きんぱくおしはりかけてんつきわきだてつきかぶと)』(安土桃山時代)。画像引用元:れきし上の人物.com
真っ赤でキンキラキンです。

これまたゲームちっくというかマンガちっくというか非現実的なほどのカッコよさ。「赤い彗星」とかあだ名されそうなこの真っ赤な兜&鎧は、徳川四天王のひとりで家康の腹心中の腹心である井伊直政のものです。直政は真っ赤な兜&鎧から呼ばれた異名が「井伊の赤鬼」。クールです。

井伊直政の像(彦根駅前)
彦根駅前にある井伊直政の像。かっこいいぜ。この像でも紹介した兜&鎧を着用しています。画像引用元:wikipedia
この黄金のクワガタムシみたいなデザインの兜は井伊家当主の兜として代々受け継がれたそうな。

直政が率いる井伊家の軍団はリーダーの直政だけでなく部下たちも真っ赤な武具・武器で統一していたため「井伊の赤備え」と呼ばれ、徳川家臣団最強の軍団として敵から恐れられました。乱戦のなかでもこれなら目立つ、目立つ。

ちなみに、初代彦根藩主でもある直政に因んで、彦根城のゆるキャラ「ひこにゃん」も赤備えファッションをしています。

ひこにゃん(彦根城のゆるキャラ)
彦根駅前にある井伊直政の像。かっこいいぜ。この像でも紹介した兜&鎧を着用しています。画像引用元:ひこにゃん公式サイト
あら可愛くなった。

歴代の井伊家当主もモチのロンで赤備えだったのですが、こちらは歴代のなかでもトップの派手さ。

井伊直定所用の兜『朱漆塗紺糸威縫延腰取二枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしぬいのべこしとりにまいどうぐそく)』
井伊直定所用の兜『朱漆塗紺糸威縫延腰取二枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしぬいのべこしとりにまいどうぐそく)』(江戸時代)。画像引用元:彦根城博物館
これは井伊家8代当主にして彦根藩の9代および11代藩主を務めた井伊直定(なおさだ)のもの。やっぱり真っ赤なのですが、前立がゴージャス。たくさんの剣のように伸びているのは、菖蒲を模したものだそう。菖蒲は「尚武(武を尊ぶ)」に通じる縁起物と考えられ、武家に人気のモチーフだったのです。

武将たちのユニーク兜(+鎧)はまだまだ続くよ!

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